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INTERVIEW

ダイソーを支えたスゴい人

Vol.05:OB・元 執
行役員 コンプライ
アンス部 
黒田 隆司
「創意」
お店の広さも100坪ぐらいになった時です。お客さまに飽きられないために「素材発信」というコーナー展開を始めました。 お店の広さも100坪ぐらいになった時です。お客さまに飽きられないために「素材発信」というコーナー展開を始めました。

ax+bにならないと会社がデカくならない。

僕が入社したのは28歳のとき。当時の年商は30億円。その頃は催事といって、スーパーの店頭を借りて一週間販売する。そしてまた別のスーパーへ移動するというスタイル。
そこで前社長(創業者:矢野博丈)に1回言ったことがあるんですよ。y=ax+bって。yは総売上。aは催事の売上で、xは催事の数。ダイソーには「+b」がなかった。だから「bを作りましょう」と。bとは固定店舗のこと。

90年代後半には毎日2店舗、月に最大64店舗オープンしましたね。

例えば、移動販売時代に大手スーパーの文具売り場に「百円クラブ」っていう10坪ほどのコーナーを作りました。固定された売り場を増やすという発想です。でもアイテムが少なかったし、発注するにもカタログもなく紙に手書きしたものをFAXして出荷していたので管理が難しくて、つまずきましたね。直営1号店を出したのは1991年。香川県高松市で、大きさは30坪300アイテムほどでしたが1日100万円売っていました。でも、当初は商店街で店を出し始めていたんですが、全然貸してくれなくて。それでもだんだん知名度が上がって、90年代後半には毎日2店舗、月に最大64店舗オープンしましたね。

無理を承知でどんどん走る会社でしたね。

そうそう、お店の広さも100坪ぐらいになった時です。お客さまに飽きられないために「素材発信」というコーナー展開を始めて。素材ごとに並べるんです、用途ではなく。「ザ・ガラス」「ザ・鉄」「ザ・竹」とかね。なんとか1店舗目を作り終えた時に、「次は三重県四日市に300坪の店を出すぞ!」と言われて。いきなり3倍。オープンしたら300万円超えの記録的結果に。その2か月後には「次はカウボーイ上磯に400坪を出すぞ」って(笑)。
そしたら480万円売れて記録を塗り替えました。
無理を承知でどんどん走る会社でしたね。

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